瞑想の方法は無数に存在しますが、どんな瞑想でもその核にはかならず「観照」という質が入っています。「気づいている」、「意識している」という質です。
どんな瞑想でも――アクティブ瞑想でもパッシブ瞑想でも、伝統的なヨガの瞑想でも、現代的なニューエイジ瞑想でも、激しく動いたり叫んだりする浄化(カタルシス)的な瞑想でも、自分の過去を意識の表面に浮かび上がらせる内観的な瞑想でも――瞑想というものであるならば、そこには例外なく「静かに、あるがままに、起こっていることを、見守る」という手法が、一本の縦糸として組み込まれていることがわかります。
瞑想のなかでこの縦糸をたどりつづけているうちに、あなたはある瞬間、自分が瞑想の世界に入っていることに気がつくでしょう。その世界は外側の世界では体験したことがないような、精妙な静けさと至福に満ちています。
そしてそのような体験をしたことのある人は、通常、その先にあるより優れたものを求めて瞑想をつづけようとするのです。
その過程を、禅ではこう表現しています。
「瞑想をするまえ、山は山であり、川は川であった。
瞑想を始めると、山は山でなくなり、川は川でなくなった。
瞑想が終わってみると、山はふたたび山であり、川はふたたび川であった」
この言葉の意味がわかるでしょうか?
これはただたんに一単位としての瞑想を語っているだけでなく、瞑想の行程のすべてを簡単明瞭に表現しています。
あなた自身を見つける旅は、人から聞いて学ぶことはできません。
誰もが、自分でその過程(プロセス)を実際に歩かなければなりません。
しかし歩きつづけてゆけば、その過程(プロセス)で、あなたは神秘的なすばらしい体験をたくさん積み重ねていくでしょう。
そして、いつか必ずこの言葉の意味がわかるときがやってきます。
あるとき、ブッダの教えに興味をもった一人の商人が、どうすればそれを自分のものにすることができるかブッダに尋たそうです。
ブッダが彼に言いました。
「あなたは商人だから、ここバイシャリの町からベナレスまで行く道をよく知っているでしょう。」
「もちろんです。私は年に10回はベナレスとバイシャリの町を行き来しますから、道のすべてをよく知ってます」
「それなら、たとえばここに一人の若者がいて、あなたにベナレスに行くにはどう行けばいいか聞くとしましょう。あなたは、彼にその行き方を教えてあげられるますか?」
「細かいところまで、全部教えてあげられます」
「あなたが若者にベナレスまでの行き方を教えてあげたとして、それならこの若者はベナレスに行ったことになりますか?」
商人は答えました。
「いや、自分の足でベナレスまで旅をしないと、彼はベナレスに行ったことにはなりません」
ブッダはにっこり微笑みながら、こう言ったそうです。
「それと同じことです。私は涅槃にたどりつく道を自分で歩き、いまそれを求める人々に道を教えています。しかし、それを聞いたからといって、涅槃を知ったことにはなりません。人は自分の足で、この道を歩かなければならないのです」
自分で実際に歩き出すことが大切です。
正しい道かどうか確信がないからといって、立ち止まってはいけません。
あなたの歩いている道は正しいのです。
たとえ短期的に、この道は間違いだと思ったとしても、最終的にはそれは正しかったことがわかるでしょう。
それは、あなたという希有(ユニーク)な存在に用意された希有な道筋なのです。
歩き始めること、歩き続けること、旅はあなたの人生でもっとも類いまれな、すばらしい旅になるでしょう。
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