アウエークニング・インテンシブ 体験談
2002年ごろ 〜 マジュヌのシェアリングを終えて(by ヨシロー)
「悟後のティーブレイク」
ぼくは会場の福祉プラザに少し早めに着いて、9F和室まで行った。
まだ誰もきていないようなので1Fまで戻り、エレベーターを出た途端に、マジュヌやプラヤスたちと遭遇した。「ヤア!」とハグ。
ぼくはつかさず、久々に会う旧友マジュヌの眼を見た。
別段、グルジェフやOSHOのように、銀河の果てまで秀鉄したわけではなさそうだ。9F和室へ入ってからの彼の立ち振る舞いも、全く普通の人。カリスマ性が出てきたわけでも、後光がさしてきたわけでも、オーラがまぶしいわけでもない。
「なーんだ、変わってないじゃん」とぼくのマインドがつぶやいた。
プーナ・コミューンのトランスレーション部で後頭部を重くしながら翻訳していたマジュヌ。
タイのコ・サメットで偶然に出会ったマジュヌ。
生真面目に瞑想にいそしんでいたマジュヌ。
タントラにご執心だったマジュヌ。
僕の知っているマジュヌが脳裏によみがえる。
旅館のような二間続きの和室のほどよい空間に、座布団を敷いて車座になる。
プラヤスはビデオのセッティングをする(おいおい、それほどのことかよ)。マジュヌは少しだけ自分の体験を話したあと、すぐに参加者との対話へと移った。プライベートな対話をここに記すことはできないが、彼のアプローチはなかなかユニークだった。禅的なアプローチの対極。
あれでもない、これでもないと、否定形でエゴや欲望を削ぎ落としていくのではなく、むしろもっとも望むものをよりクリスタライズさせてゆき、その奥の本質を示す。それを見つめ、見つめて…我が家にでんぐり帰る、とでも言えばいいのだろうか。「ムムム…」とぼくはうなりはじめた。
さてぼくとの対話の番になった。
「旧友が来たわけだから、会いたくなってきたんだよね。ぼくは何世にも渡って待ち望んでいたOSHOと出会って、彼のもとで過ごし、少なくても外側へ探し求める旅は終わったんだ。あとは準備して、待っているだけかな。」というようなことをしゃべったと思う。
「待つ必要はないよ。すでにヨシローは、『これ』なんだよ!待つ時間なんて、ないんだよ。いまここだって、全面的に許したら、もうすでにそうなんだよ。これまでさんざんグループや瞑想を体験してきて、もうあとはいまここにジャンプするしか残っていないんだよ!」彼は手をポール牧のようにパチンパチン鳴らして、ここを示す。
言葉だけをとらえれば、どこかで聞いたことのあるような言葉だが、ズンズンとなにかがぼくの胸に入ってくる。もしくは、落ちていく。“見つけよう”という未来よりの時間も、“待っていよう”という過去よりの時間も消え失せ、この瞬間の瞬間が、ぐわんと濃密な永遠の顔をのぞかせる。茶室で師と対面しているような時空間になってきた。
「鏡を磨く必要もないというのか。」
「もう岸までたどり着いているじゃないか。その上、岸に上がって頭に船を乗せて歩いている。もう瞑想して気づこうという必要さえないんだよ。」
我が家に戻ったときの、自分ならではの味わい。それをトータルに味わったら、いつでもすぐに戻って来れる。自分の状態によって大きくなったり小さくなったりするわけでもなく、変わらずあり続ける、と彼は言う。それではぼくはわが家の内で、わが家を待ち続けていたと言うのか。それではぼくは、気づきの海の内で、気づきを保とうとしていたと言うのか、それではぼくは、独自の味わいの内で、これは至福じゃないと言い続けてきたと言うのか。…どうやら、そのようだ。勘違いというのは、じつに笑っちゃう。
マジュヌとの体験を言葉にすると、このような感じになりますが、言葉以上の味わいが今も続いています。
これまでのどんなセラピストとも違う、濃厚な不思議な体験でした。
(受けた方のご感想 1)いったいシェアリングというものが、何をどうするものなのか、かいもく見当がつきませんでしたが…、最初のシェアリングのとき、何かが、どかーんとやってきました。
…マジュヌのシェアリングを聞いているうちに、今までの自分自身を思って、それで大笑いをしてしまいました。
(受けた方のご感想 2)マジュヌの話を聞きながら、そのとき「そうか!そんなにもシンプルなことだったのか!」と、僕は膝を打ちながら大笑いを始めた。気がついてみると、目の前に延々と立ちはだかっているかに思えた暗闇が、もうどこにもなかった。その見事さは「“それ”そのものの持つ“シンプルさ”、“明快さ”」以外の何ものでもなかった。